新聞・雑誌等への掲載

わが夢 東洋高圧社長 野口賢二郎氏 <2> 世界を旅して

2007.01.17
2007/01/17 中国新聞朝刊
世界を旅して
53ヶ国での経験 自信に
 人がやっていることを追いかけるのでは、通り一遍のことしかできない。それが「人のやっていないことをやりたい」「新しいもので勝負したい」という気持ちのベースです。それを確固たるものにしたのは40年前の世界の旅でした。


【本に触発され米国留学】
 私は呉市生まれ。数学や物理が得意で、工学部なら就職先が多いだろうと、広島工業大(広島市佐伯区)に進んだ。
 入学して間もなく、作家の小田実さんが各国を旅して著した「何でも見てやろう」に出会った。海外旅行は珍しい時代でしたが、触発されて米国留学を決心。電話帳の製本と梱包(こんぽう)の下請けなどをし、学費や下宿代も払いながら渡航費用をつくった。
 三年生に進級すると同時に休学。移民船で米国へ向かった。でも、米国はそんなに甘くはない。希望していたカリフォルニア大ロサンゼルス校の面接を受けたが「語学が全然だめ」と断られた。
 それで1泊1ドル(当時360円)の宿に泊まりながら英語学校に通った。手持ちの100ドルは1ヶ月で底をついたため、ビバリーヒルズの映画監督の家で住み込みの家事手伝いをした。五十畳はあるリビングルームにふかふかのじゅうたん、大きなプール…。毎月パーティーもあった。世界一金持ちの国の豊かな暮らしぶりはカルチャーショックだった。
 日本総領事館の警備員や芝刈り、食堂のウエーターなどのアルバイトをし、1年後には200万円ためた。うち180万円を大阪の親類に送り、長屋の一区画を買ってもらった。父は会社勤めだったが、自分は向いてないと思い、将来は起業するつもりだったからです。
 それから世界の旅に出た。中米、英国から北アフリカを経て、トルコから中国まで53ヶ国を巡った。ヒッチハイクやバスで一年弱の貧乏旅行。帰国するころにはどんなことをしても食べていける自信がついた。

【「特注に商機」 独立決心】
 帰国後、大学を卒業して就職したのは、既に家を購入していた大阪にある圧力機器メーカー。独立に必要な技術を身に付けようと選んだ先だ。量産品の設計開発を担当。会社には時々、潜水艦の減圧弁など特注部品の依頼が舞い込んでいた。
 特注だと、同じ形状でも材質を変えるだけで1個3千円の部品が70万円になったりもする。ところが、私がせっかく特注のもうけ話をまとめても、会社は失敗を恐れてすんなりとは受注しない。そこに商機がある、と私は確信したのです。
 大阪は競争が激しい上、知り合いが少ないため不安もあり、古里の広島で独立することにした。27歳でした。

←戻る


東洋高圧バナー  超臨界技術研究所バナー