新聞・雑誌等への掲載

わが日 わが夢 ものづくりを支えて <2>

2004.09.06
2004/09/06 中国新聞夕刊
米滞在と世界旅行で自信
就職し特殊部品と出合う
「チャンスあり」独立決意


 東洋高圧の社名は、「東洋一の高圧機器メーカーになる」という思いを込めて名付けられた。大学卒業後にいったん大阪で就職したものの、1974年4月に28歳で安定したサラリーマン生活を捨てて広島市に戻り、起業した。
 出身は呉市。大学は60年から広島工業大(広島市佐伯区)の電子工学科に通った。卒業するまではアルバイトばかりの生活であり、それは米国の大学に留学したい望みがあったからだ。
 英語は岩国の米軍基地で習い、3年生になる時に渡米した。当時は1ドルが360円の時代。アルバイトでためた200ドルで移民船「さくら丸」の往復乗船券を買い、ロサンゼルスに向かった。着くとすぐ帰りの切符を売って滞在費にした。
 そもそもはカリフォルニア大に入りたかったのだが、大学から英語力の不足で入学を断られてしまった。そのまま帰ってもしょうがないから、現地でいろいろアルバイトをしながら滞在した。
 中でも、高級住宅街のビバリーヒルズで映画監督の家で子どもの世話などをしたことが一番印象深い。そこでは毎週のようにパーティーが開かれ、米国が豊かな国であることを実感した。
 ベトナム戦争は始まっていたが、すべてに余裕が感じられ、米国は輝いていた。日本のサラリーマンの月収は当時2万円ぐらい。米国でのアルバイト代を日本円に換算したら倍以上で、そんな豊かな国で過ごした経験がいつか独立してやろうとの気持ちをはぐくんだ。
 1年ほどでアルバイトを切り上げ、世界一周の旅に出た。最初はメキシコに行き、それから南米を回る予定だったが、ユカタン半島で強盗に遭い、パスポートと現金以外は取られた。それで南米をあきらめて欧州、アフリカ、中近東、アジアと53ヶ国を回った。ほとんどがヒッチハイクとバスの貧乏旅行で、野宿も当たり前。その経験から、何をやっても生活していける自信を得た。
 当時はまだ日本人の海外旅行が珍しかったせいか、川端康成、大宅荘一、勝新太郎などいろいろな有名人と出会い、親切にしてもらったことも思い出だ。石原軍団の映画撮影隊「栄光の5000キロ」のアフリカロケに出くわし、石原軍団に入らないか、と誘われたりもした。今では危なくて無理だが、イラクからイラン、アフガニスタン、インドと回って帰国。まだどこも戦争がない最後の平和な時代だった。
 就職したのは大阪の圧力機器メーカー。ちょうど研究開発課が新設され、そこに配属された。最初からいつかは独立するつもりで就職したが、その機会は突然現れた。ある企業に行った際、特殊な部品の注文を受けたのがきっかけだ。
 それは、自衛隊の潜水艦に使われる減圧弁。一般の製品カタログにも載っているような3千円の部品を材質を変えるなど特注品仕様で製造するだけで70万円で売れる。こうした特殊な部品を作れば、独立しても十分にビジネスチャンスがあることが分かった。
 その時点では注文をもらって会社に戻ったが、会社の技術者はなかなか製造を引き受けてくれないし、会社としても何か事故が起きた時に責任が取れない、と最初は受注を尻込みした。最終的になんとか説得して製造してもらったが、その時に会社というものはなかなかリスクは背負いたがらないものだと感じた。
 同じようなケースが続いこともあり、入社4年でサラリーマン生活にサヨナラした。それから広島に戻り、いよいよ独立することにした。

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