新聞・雑誌等への掲載

わが日 わが夢 ものづくりを支えて <3>

2004.09.13
2004/09/13 中国新聞夕刊
10畳ほどの部屋借り独立
試験装置製造で実績
大手からも次々と注文


 サラリーマンを辞めた1974年、広島市中区で事務所を借り、独立した。事業が少しずつ軌道に乗る中、81年に法人化。社屋も南区、西区と移り、社員も増えた。88年に移転した現行の本社屋で四代目になる。
 独立する3カ月前、大阪の圧力機器メーカーの広島営業所に技術スタッフとして転勤。広島や岡山、山口などで営業の勉強をさせてもらった。それから広島営業所の近くにあった10畳ほどの部屋を借りて起業した。
 最初は市内の大手メーカーなどに出向き「何か特殊な加工品はありませんか」と注文を取って回る仕事。当時は研究に必要な部品をちょうど真ちゅうからステンレスへと材質を切り替えるタイミングに当たり、そこそこ食べられるぐらいの注文はあった。
 現在のような試験装置づくりは、独立して1年後から始まった。まだ第一次石油ショックから間もない時期で、最初に三菱重工業広島研究所が新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の補助金を受けて石炭を液化するプラントを製造する試験装置を受注した。よく研究所に出入りしていた関係で「ひとつやってみないか」という軽い感じで仕事をもらった。
 当時は現在の専務と2人体制で、製造は東京の会社に外注。いろいろな部品は手掛けていたが、なにせ装置全体は初めての経験なので、何度となく徹夜しながら8ヶ月かけて完成させた。それが実績となり、三菱重工業をはじめ、倉敷市の水島コンビナートに工場を持つ三菱化学や旭化成などの大手メーカーから次々と試験装置の仕事が舞い込むようになった。
 独立後5、6年で仕事が軌道に乗り、これでやっていけるという自信がついた。変わったところでは、ブラジルでイモからアルコール分を抽出して自動車の燃料などに使うプラントの試験装置を造ったり、自衛隊のミサイルや迫撃砲などに使う特殊な部品を作る仕事も請け負った。
 今から見れば、ちょうど独立した時期が良かったのだと思う。70年代から80年代にかけて日本は経済大国に成長したが、ライバルの米国は基礎研究のデータをだんだん日本に教えなくなり、自前で基礎研究をしなければならなくなった。それで試験装置の需要も高まり、うまく時流に乗れた。
 それと当時は2度の石油ショックで構造不況の時代で、それが逆にうまく作用した。不況になれば、大手企業は売り上げ回復のため新製品開発の研究を多く手掛ける。だから不況時にわが社の受注も伸びるという不思議な相関関係ができた。
 とはいえ、すべてが順調だったわけではない。苦い経験も味わった。
 試験装置は一品限りの製品ばかり。だから量産品も手掛けてみようと、90年代前半に食品加工機械分野に進出し、新製品を開発した。自動生カニ足皮むき装置と魚の自動切り身製造装置だ。2つとも評判を呼んでそれぞれ10台以上売れたが、間もなく苦情の電話が次々にかかってきた。「故障して動かない。早く直しに来い」という怒りの電話だ。
 原因は、動きを制御しているコンピューターの故障。食品加工現場では魚のうろこなどが飛び散って装置が汚れるため、コンピューターまでじゃぶじゃぶ洗っていた。こんな荒い使い方までは想定外だったから、すぐあきらめて撤退した。
 ただ、この2つの装置のおかげで知名度が上がった。中国地方から全国へと取引が広がった功績は大きかった。

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